人の痛みは本当にはわからないという「やさしさ」の話

人の痛みは本当にはわからないという「やさしさ」の話

今日は「やさしさ」について話をしたい。ぼくは「やさしくなりたい」と思っている。ただ、最近ぼくはやさしい人にはなれないことに絶望した。しかしその後、人から教えてもらったり考えたりして希望を見出した。そこで、ぼくが希望を見出すまでの思考を辿り直すことを通して、自分の中でもう一度整理するとともに、他の人にも何か気づきがあればと思い、今回のこの記事を書いた。すこし長いけど、コーヒーでも飲みながらゆっくり読んでみてください。

 

強者の理論

まずは1つのnoteから話を始めたい。ぼくは中村タカさんの『「強者の理論」にはもううんざりなんだよ』というnoteを読んでから、「やさしさってなんだろう ? 」「やさしくなりたい」と考えるようになった。「強者の理論」をぶつけられているように感じてしんどかった自分にとって、このnoteはぼくにとって「やさしさ」だったし、後に自分が強者でもあることに気づくきっかけになった。まず強者の理論について話したい。

 


” あなたは偉いよ、あなたの努力はすごいと思うよ、辛いこともたくさんあったと思うよ、しんどい思いで頑張ってきたあなたにとって環境のせいにして挑戦しないやつらにイライラするのもわかるよ、でもそうやって「全ては努力次第」って言って、自分基準でしかない努力を人に押し付けて傷つけるから、誰かが今日も出来ない自分を責めて死ぬんだよ。”


 

人はよく努力する、すごいなと思う。死ぬ気で毎日を生きる。そうしてたくさん失敗をして、いろんなことを学び、成長する。そうやって生きていると、ふとした時に「努力していない人」を見て、なぜ努力しないのか、なぜ努力もせずにうじうじ言っているのか、と思ってしまう。人の成功はきっとほとんどが、努力できた “環境” のおかげなのに、違う環境で育った人にも自分の基準で同じことを求めてしまう。

 

この『自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ』という記事にも似たようなことが書いてある。議論の発端は、本田圭佑選手のTwitterでのこの投稿。

 

 

リンクにある記事は今は「not found」と出てしまうのだが、若者の自殺に関して書かれている記事らしい。その記事をリンクして、若者を強く鼓舞しようと、このような言い方を本田選手はしている。本田選手は他人のせいにせず、政治のせいにせず、ここまで努力してきてACミランの10番を獲得したり、日本代表でも、ぼくを泣かせるくらいの、活躍をしてきた。本当に尊敬している。でも、彼にはそれができる環境が用意されていた。努力できる強いメンタルを身につけられる “環境” があった。しかし、そんな環境に身が置かれなかった人にとって、「他人のせいにするな ! 政治のせいにするな ! 」という言葉はあまりにも強いかもしれない。今この記事を書いているぼくにとってこのツイートは励みになるし、本田選手の若者を思っての発言であることも感じ取れる。だけど、人によっては、この発言は「強い」と感じるだろう。

 


” 自分は自分の力で頑張ってきたんだという強い自意識があるから、社会的な弱者に対して「他人のせいにするな」と平気な顔で言い放ってしまう。自分が成功したのは自分ががんばったから、そして、他人が成功しなかったのは他人ががんばらなかったから。あまりにも単純で、あまりにも狭い。物事の複雑な因果を一つの偏狭な図式に当てはめて理解し、それによって成功者としての自分の過去に肯定的な価値を与える。今日もまた一人、また一人と、成功者たちが「自己責任論」のダークサイドに墜ちていく。”


 

引用した記事の中でもこのように書かれている。これが「強者の理論」だ。人の成功はきっとほとんどが、努力できた環境のおかげなのに、違う環境で育った人にも自分の基準で同じことを求めてしまう。

 

 

ぼくは弱者

ぼくは今「やさしい社会をつくるヒーローが、お金に困らないように。」というコンセプトで、社会的価値をお金に変えられるサービスを作っている。来年の頭までにそのサービスでNPO法人を設立する予定だ。

 

活動は毎日がんばっているが、ぼくはどうしても心が弱くてがんばれない日がある。引きこもっている日がある。そんな日にTwitterを見ていると起業して成功した人や、ブログで生活を成り立たせている人たちが、「無駄なことはやめろ、時間の使い方はこうだ、やらないやつは甘えだ、ばかだ」などと言っている。ぼくはそれができず、がんばれない自分に嫌気がさしてしんどいことが、よくある。この人たちは自己肯定感が高くて、努力しまくれる強さがあって、それだけ成功できたんだろうけど、ぼくにはそれが難しい。そして、自分がそういう性質を持ってるなら、対応策考えたら頑張れるようになるでしょ、と今考えたあなたはきっと強者だ。恨みもないし、気にしないけど、うるせぇと言いたい。

 

他にもいろんな強者の理論を投げつけられた。お金がないわぁと言った時に、仕送りたっぷりもらってる人に「じゃあもっとバイトすればいいじゃん」と言われたこととか、ゴリゴリと仕事ができるメンタルのめっちゃ強い人に「もっと働けばできる、がんばれって」と言われたこととか。そんなことを言われる度にぼくはしんどくなって、バイトをするのも活動するのもしんどくなって、布団の上でブランケットとストレスにくるまって動けなくなった。

 

そんな時にふれた「やさしさ」

最初にも言ったけど、そんなときにタカさんのnoteはぼくにとって「やさしさ」だった。でも、タカさんだけでなく、お金がないのに働けない時や、活動がしんどくなって動けなくなった時、そんな時にぼくに強者の理論を振りかざさず、接してくれた人もいた。ぼくが存在することをただ認めて喜んでくれる人や、ぼくがしんどいと感じてる気持ちを完全には理解できないけど、理解しようとしてくれる人。そのやさしさに触れてぼくはとても幸せだった。

 

単純かもしれないけど、だから、ぼくはやさしい人になりたいと思った。じゃあ「やさしさ」とはなんだろうか。ぼくは「存在の肯定」と「よりそうこと」だと思う。自分がされて心が溶けたのはこの2つだ。「ばん(ぼくの名前)がいると安心するよ」とか言われたらすごい嬉しい。いるだけでもいいのか…と嬉しくなる。それが存在の肯定で、よりそうというのは、相手の痛みを理解しようとそばにいて、耳を傾けたり話したり、相手が本当に困ってることを解決することだと思う。だから、何を言われてもまだしんどいよという時に背中を押されるのとか、やさしさのつもりで強者の理論をぶつけてくるのはやさしさではない。

 

ぼくにとってやさしさは「存在の肯定」と「よりそうこと」だ。お金がなかった時、活動がしんどかった時、そんな時にTwitterなどで見る「強者の理論」はとてもしんどかった。だから、ぼくは「強者の理論」を振りかざさずに、ぼくがしんどい時に受けたこのやさしさ、この2つをやさしさとして、ぼくはこれからやさしさを大事にしたいと思った。

 

 

「やさしい人」になる

では、どうすれば「やさしい人」になれるのか。

 

結論、「やさしい人」にはなれない

 

「やさしい人」は「やさしさ」を完全に体現した人だとする。すると「やさしい人」は「存在の肯定」と「よりそうこと」の2つを完全に体現できる人になる。存在の肯定、これは意識していればできるかもしれない。しかし、よりそうことを完全に体現するというのは本当に難しい。よりそいきるためには相手の痛みが理解できないといけない。でも、人間は人の痛みなんてわからない。その人の痛みがわかるなんてのは傲慢だ。人間には自分の痛みしかわからない。それに自分の痛みもどんどん薄れていく。忘れていく。だから人間には他の人が今感じている痛みはわからない。どんなことに痛みを感じているかわからない人が、本当にしてほしいやり方でよりそうのは難しい。できないと思う。できるなんて傲慢だ。そう思う。

 

ぼくがお金がなかった時、お金を貸そうかと言ってくれた人、ご飯をくれようとした人、一緒にどうお金を稼ごうかと考えてくれた人、いろんな人がいた。しかし、どれもぼくの痛みを理解して言っている言葉ではないから、「やさしい人」はいなかった。きっと彼らはぼくにやさしさを向けてくれようとしていたのだと思うけど、その時のぼくはただ孤独感が辛かったし、明日が不安だった。それを一緒に静かに話して聞いてくれる人が欲しかった。その時のぼくにとって、そんな人こそが「やさしい人」だった。でもそんな人ほとんどいなかった。

 

きっとぼくもそうだ。ぼくたちは「やさしい人」にはなれないんだ。今横でパソコンを触っているこの後輩の痛みなんて想像してもしきれない、理解できない。絶望だ。

 


「自分は強者で、正論で生きてて、しんどいひとの心のありようを理解しづらい人で、ナチュラルに強者の理論を押しつける奴なのかもしれない」


 

認定NPO法人D×Pの入谷佐知さんのブログ記事『「あなたと一緒にいると惨めになる。」強者の理論と向き合う』にはこのように書いてある。人間きっとどこかの部分では強者であり、正論で生きてて、それを人にも押し付けてしまいそうになる。そして、押し付ける。多分、あなたもそうだ。「やさしい人」にはなれない。絶望かもしれない。ただ、それは現実だと思う。

 

 

「やさしくなりたい」

ぼくは「やさしい人」にはなれない。ぼくは「やさしさ」を大切にしたいけど、「やさしい人」にはなれない。ぼくには、ぼくらには人の痛みがわからない。

 


あなたの正義はそこまでなのか? 弱者なのだ、不自然な人たちは弱者なのだ。たとえ大人になって力を得ていたとしても、消えない心の傷や身体に染み付いた不自然を抱えているとしたら、まだ「ありのままを愛してもらえない自分」を抱え、傷つき続けいている人たちなのだ。… あなたが自分を偽らなくてもいい世界にするよ、待ってて、って声をかけよう。環境に働きかけよう。不自然さに疑問を持つ側の私たちは強者なのだ。強者の自覚を持たないことは傲慢だ。


 

これは小渕花梨さんのnote『偽らずに安心して眠れるか』の一節だ。この一節を読んで、ぼくは自分が強者の理論をふりかざして喚く人をみた時のしんどさを思い出し、そんなことをしたくないし、そんなことをする人が少なくなればと思った。だから、たとえ「やさしい人」にはなれないとしても、やっぱりやさしくなりたい。「やさしくなりたい」んだ。

 

「やさしくなりたい」と思うことはできる。

 

ふと「やさしくなりたい」と口にした時にハッとした。「やさしくなりたい」と思うことはできるのだ。そうわかると、少し希望が見えてきた。少し考えてまた小さく呟いて噛みしめる。「やさしくなりたい」と思うことはできる。

 

自分が強者の理論を振りかざされた時、すごくしんどかった。だからそんなことはしたくないし、してる人も見たくない。確かに、努力してない奴なんて認めたくないかもしれない。環境のせいにしてる奴にはムカつくかもしれない。そんな人が自分に向かって酷い言葉を向けて、胸を突き刺してくるかもしれない。でも、その人はきっと自分とは違う環境で育ち、そう生きるしかないのかもしれない。自分だってそうだ。あなただってそうなんだ。みんな強者であり弱者だ。そう思うと、できるだけすべての人の存在を肯定して、寄り添いたいと感じ始める。人の痛みを理解するなんて到底できないから、きっと「やさしい人」にはなれない。でも、自分が「やさしさ」を向けられた時のように、自分もなるべく「やさしくなりたい」。

 

やっと終わった。やっと、4人の尊敬する方々の記事を引用しながらの、思考の整理を綴った散らかった文章がまとまった気がする。ぼくはこのように考えてこの半年間で、「やさしい人にはなれない」と絶望し、「やさしくなりたい」と思うことはできると希望をもった。これからは、とにかく「やさしくなりたい」と思う。これを読んだあなたが小さい声で「やさしくなりたい ! 」と呟いてこのページを閉じることを祈るばかりだ。とりあえず布団から出ないとな。明後日から東京だから準備しないと。

 

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